17.5日目
◎17.5日目
「やあ、久しぶりだね」
唐突に現れたそれは親しげな目を向けて言った。
「覚えてくれているかな?」
「すみません、えっと、どこかでお会いしましたか?」
「……そうだよね、さすがに覚えてないか。もう何年も前だし、今とは随分と違う姿をしていたから。混乱させたね。ごめん」
言葉とは裏腹に少しも悪怯れる様子はなく、口元は緩んでいる。面識があるような振る舞いだが、あいにくこちらには一切の心当たりがない。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「長いようで短かった。まさかこんなに早く出てこられるとはね。でも、君が覚えていないなら、今はまだ名乗る時じゃない」
何なんだこいつは。軽薄な様子に不快感を抱いた。既知の間柄だと語るが、こんなものと関わった覚えは全くないし、今後関わりたいとも思わなかった。失礼します、と口早に伝えてその場を去った。
去り際に「皮膚科に行くといい」と言われたそれが妙に強く耳に残った。
「昨夜は一睡も出来ませんでした」と答える。
「ビリビリとして、まるで電流が走っているみたいにとても痛くて。とは言っても、感電したことはないんですけれど……」
完全に聞き流すつもりだったのに、皮膚科医院にいた。断じて昨日のそれに従った訳では無い。と、誰宛でもない言い訳を考えながら、医師の診察を受ける。
医師は気の強そうな老女であった。動きは老いを感じさせず、テキパキとまわりのスタッフたちに指示を下している。
ボーッとその様子を眺めながら、昨日のやり取りを思い出す。結局それの正体を知りたくて、木曜日も開いている医院まで足を伸ばしてしまった。
「帯状疱疹ね」
患部にじっくりと目を凝らし、いくつかの質問をした彼女はあっさりとそれの正体を告げた。「帯状疱疹……」聞き慣れない病名を思わずオウム返しにしてしまう。
「水ぼうそうに罹ったことがあるでしょう?」
「あります。幼稚園児の時に」
「症状が治まったあとも、その時の水疱ウイルスがずっと何年間も神経細胞に潜伏していて、将来、免疫力が低下した時に帯状疱疹ウイルスとして出てくるの」
彼女は何度も何度も同じ説明をしたことがあるのだろう。慣れた様子で言った。返事も待たず、「若いのに珍しいわねえ。薬を飲んで、しっかり休みなさい」と彼女は続けた。
手渡されたリーフレットを読むように促される。マスタードの表紙に映えるインディゴの明朝体で大きく『よくわかる帯状疱疹』と書いてあった。後ほど目を通すと伝え、リーフレットを片手にお礼を言って、診察室を出た。高額な薬代に目を剥いて財布を慰めながら帰路を急いだ。
「やあ、思い出してくれたみたいだね」
それは軽薄な笑みを浮かべたまま、突然口を開いた。反射的に言葉を返す。
「冗談じゃない。あなたのことは思い出したけれど、今更何をしに来たの?全く歓迎出来ない。早く出ていって」
「手厳しいね、15年振りの再会だっていうのに。せっかくまた会えたんだし、ゆっくり休んでいこうよ」
「あなたがいると痛くて痒くて堪らないし、ちっとも休めやしない。それに、どうして顔を選んだわけ?肌は醜いし麻痺してまともに話せないし、心の底から大嫌い」
睡眠を奪い、見た目を奪い、それでもなお笑みを貼り付ける顔を見て、我慢の限界だった。不快感をぶつけるように鬱憤を晴らす。
「とにかく、さっさと出ていってよね」
何かを言いた気なそれに気づいたけれど、一方的にピシャリと言い放ち、薬漬けと安静の日々を過ごした。
「はい、はい。来週からは復帰出来ますので。ご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした。はい、失礼します」
病欠していた勤務先に、快気を伝える電話だった。診察帰りの雑踏から抜けて歩道の端に寄り、スマートフォンを見つめて溜息を零す。自他ともに認める社会不適合者だ。社会復帰が間近に迫り、足取りは重い。
「あれ、もう良くなっちゃったんだ」
長く床に臥すうちに、すっかり耳に馴染んだ声が聞こえた。それは常に笑みを貼り付けていたが、今日はどこかぎこちないことにまで気づいてしまった。
「まだ痛みはとれないし、肌に跡も残ってしまっているけれど随分と回復したよ」
「そう……まあ、それでいいのかな」
まるで快癒するのは好ましくないかのような言い草だ。再会してすぐの頃なら尻尾を踏まれた犬のように噛み付いただろう。だが、何も出来ず半月もの時間をただ安静に過ごしている間、常に側にあり続けたそれに情のようなものを抱いていた。元凶であるそれが快癒を喜ぶはずがないのは分かりきっている。
「どう?少しは休めた?」
普段の軽薄な形はすっかりと身を潜め、真摯な光を宿した瞳が向けられている。おかしい。これではまるでそれが本気で心配しているみたいじゃないか。この際思い切って聞いてしまおうか。
「元はと言えばあなたのせいでしょう?どうして今更そんな、心配していたようなことを……」
全て言い終わらないうちに口を噤む。
「……もしかして、休ませるために?」
それは微笑んだ。頷いたり、はっきり言葉にはしなかったけれど、これまでのような軽薄さの感じられない微笑みが肯定だろう。
「こうでもしないと君は休めないだろう?そもそも、こうして出てこられるまで免疫力が低下していたんだし」
「ああ、そんな。そうとは知らずに特効薬を飲んで、しっかりと休んでしまったから、あなたは」
「そうだね。言いつけ通り出ていくことは出来ないけれど、そろそろ大人しく引っ込むことにするよ。ああ、悪いね。体は貸しておいてくれるかい?」
勿論、と頷く。気づいた時には既に何もかもが手遅れだった。抗生剤がそれを力尽くで抑えつけ、ビタミン剤が神経の修復を始めている。宿主の不調を察知し、休養出来るように取り計らってくれた恩人とも言えるそれは、再び手の届かない所へ去ろうとしていた。
「ごめんなさい。せっかく休みをくれたあなたを、力尽くで抑えつけてしまった」
「手荒な方法になってしまったからね。お互い様だよ」
それの気配がぐんぐん遠のいていく。
「ねえ!帯状疱疹ウイルス!また、会える?」
言葉は返ってこなかった。だが、去り際に残された微笑みで充分だった。
「通常は一生に一度の発症だそうだけれど、私の虚弱さなら、きっと」
再会した日には緑を涼やかに撫でていた風は、すっかりと湿気を含み、汗を搾り取ろうと熱を孕んで肌にまとわりつく。
姿が見えなくなっても、それは私の体の中でいつも側に居て、宿主が弱ると休まるために軽薄な笑みを浮かべるのだ。その時はこちらから声をかけよう。「やあ、久しぶりだね。覚えてくれているかな?」またいつか、きっと。